女風土記 HerStory from Japan

#女風土記 #女性史 #女性伝 #郷土のヒロイン

🌹女風土記🌹 長崎県大村市 知的障害児教育の母 石井 筆子 女史 / Pioneer in Education for Children with Intellectual Disabilities, Ms. Fudeko Ishii

見出し画像

🌹女風土記🌹 長崎県大村市 知的障害児教育の母 石井 筆子 女史 / Pioneer in Education for Children with Intellectual Disabilities, Ms. Fudeko Ishii

 
画像
-大村市 / Omura city

「いばらの路を知りて捧げし身にしあればいかで撓まん撓むべきかは」
"Dedicated to the thorny path, I shall never bend."

石井 筆子 女史
Ms. Fudeko Ishii
1861 - 1944 
長崎県大村市 生誕
Born in Omura-City, Nagasaki-ken

石井 筆子女史は、知的障がい児教育の創始者です。夫・亮一とともに日本初の知的障がい児教育福祉施設として滝乃川学園の運営に尽力しながら、知的障害児童ひとりひとりの可能性を育てようと献身しました。
Ms. Fudeko Ishii is the founder of education for children with intellectual disabilities. Along with her husband, Ryoichi, she worked hard to run Takinogawa Gakuen, Japan's first educational and welfare facility for children with intellectual disabilities. She dedicated to nurturing the potential of each and every child with intellectual disabilities.

*******

「江戸城無血開城」
 薩摩藩と長州藩を先頭に尊皇攘夷派が勢力を伸ばす最中、筆子は大村藩士の父・渡辺清と母・ゲンの3人きょうだいの長女として生まれます。父・清は出島に出入りして蘭学を学んだ後に「海軍伝習所」頭取の勝海舟はじめ江戸で「鴨居塾」長の大村益次郎に兵学を学ぶと、長州藩が米仏艦隊を砲撃した「下関戦争」を契機として、江戸で長州の桂小五郎(木戸孝允)を塾長とする「神道無念流」道場主となって勤王志士と交友の輪を広げる弟・昇とともに大村藩内に勤王派を旗揚げします。2人は藩主・大村純熈の信任厚い「応接掛」として諸藩との交際に従事、福岡藩と連合して幕府の長州征伐を中止させると、昇は同盟藩である筑前藩とその姻戚関係にある薩摩藩そして長州藩による三藩連合を西郷隆盛・桂小五郎・高杉晋作に説いて薩長同盟を実現、清は西洋式軍隊を組織し上洛すると「鳥羽・伏見の戦い」に参戦、負傷兵受け入れを拒否した横浜居留地駐在イギリス公使パークスとの協議をもって西郷隆盛と勝海舟の会談に同席し江戸城無血開城に貢献、八幡姉崎戦争・上野戦争・飯能戦争・会津戦争で新政府軍を勝利に導きます。この間、筆子は大村で祖父母と母に守られて幼児期を過ごします。

「鹿鳴館の内と外」 
 明治新政府のもとで父・清は福岡県令や元老院議官等を歴任。11歳の筆子は家族そろって東京で暮らし始め、日本初の官立女子校である東京女学校に第一期生として入学。貴族・華族・大金持ちの子女らと、英語・生物学・物理学・化学・歴史学など当時最先端の教養を外国人教師から学びはじめるも、高額な授業料による財政難で廃校になります。向学心に燃える筆子は、父親の伝手で勝海舟の屋敷内でアメリカ人教師ウィリアム・ホイットニーの娘クララから英語を習います。筆子は18歳で元アメリカ大統領グラント将軍を父・清ともてなし華々しく外交デビュー。「将軍は一入感深うおはしつる風情にて、己の手を取り給いつつ『はるばる日本に来たりて郷の如き年若き人と我が国の言葉を以て語り得る嬉しさよ』と言い給いし」翌年には皇后命で旧大村藩主に伴われて渡欧、オランダ駐在特命全権公使長岡護美・知久子夫妻の従者として訪問したフランスで、市民革命による「自由、平等、博愛」はじめ最先端の人権思想・女子教育・慈善福祉事業などを嬉々として学びます。2年後に帰国するとクララや米国留学を終えた津田梅子また大山捨松と交友、お雇い外国人法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの娘ルイーズからフランス語を学び、鹿鳴館の宴会に出かけて袴をドレスにアレンジして華を添えながら英語・フランス語・オランダ語を駆使して外国要人を接待します。鹿鳴館の外では地租改正と殖産興業政策が進められ、農民層が窮乏、職人層が崩壊、士族層が没落、天災や経済不況が多発し貧困層が拡大、困窮する人々が都市に大量流入し機械制工場の過酷な賃金労働者となります。

「娘の知的障害」
 1883年、進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンの従兄でイギリス人類学者フランシス・ゴルトン(Francis Galton)が「優生学 / Eugenics(ギリシア語で良い種)」を作り出した翌年、23歳の筆子は父の勧めで元大村藩家老の長男・小鹿島果と結婚します。嫁入り道具は天使が彫刻されたドイツ製のピアノ(J.G.Doering Yokohama)。夫は工部大学校(現在の東京大学工学部の前身の一つ)を卒業して工部省・農商務省に勤めるエリート官使。まもなく長女・幸子が生まれるも、医師から知的障害を示唆されます。突然の不幸に打ちのめされた筆子は、津田梅子の立ち合いのもと、日本聖公会ウィリアムズ主教から洗礼を受け、娘の成長を見守ります。梅子が英語教師として勤める華族女学校でフランス語教師として教鞭を執りながら、急増する孤児救済の仕事を始め、貧困家庭の女子を職業訓練する大日本婦人教育会付属女紅女学校の開校に携ります。やがて次女・恵子が誕生するも虚弱児で生後すぐに亡くなり、まもなく三女・康子を授かるも結核性脳膜炎にかかって知能と身体に障害が残ります。さらに翌年には夫・果が35歳の若さで急逝。31歳で2人の障害児を抱え未亡人となった筆子はますます信仰を篤くし、聖公会のミッションスクール・静修女学校の校長に就任します。昼間は華族女学校に勤め、朝夕は静修女学校で寄宿生とともに過ごします。一方、知的障害を持つ娘達は「不具廃人」「白痴」と称され教育の対象外とされることに筆子は悩みます。

「孤女学院」
 生徒数40人以上に成長した静修女学校に、立教女子大学の元教頭・石井亮一が講師としてやってきます。濃尾震災で人身売買の被害を受ける孤児を救済して「東京救育院」を設立後、荻野吟子女医宅に「聖三一孤女学院」を開設、保母・女工・産婆・看護婦・教師・伝道師などを養成して女性の職業自立を掲げていました。「主きりすとノ遺訓二遵ヒ天下無告ノ孤児若クハ貧児ヲ救育スル」「貧児・不其者は言ふ迄も無く、瘋癲白痴と.して度外に放棄せられたるもの迄をも教育せん」。筆子は華やかな人脈を活かしたバザーを主催し、寄付金を集めて経営難を助けます。長く病床にあった3女・康子が死去し悲しみに暮れる筆子に、亮一は知的障害児童のための教育福祉施設の構想を打ち明けます。「預かった孤児の中に14歳の白痴の女児がおり、5本の指を数えることも出来ず、箸2本と2本で4本になることも理解できなかった。教育しても何の進歩も見せず、 学ぼうとする意欲もなく、懲戒しても殆ど意に介さない。或る日『君がどうしても覚えないのは、ひとえに私の教え方が下手なのだ。それで食欲が出ない。』これを聞いた彼女は悄然として涙を流し心から謝り、それ以来、少し勉強に気を入れるようになった。」その頃、キリスト教伝道者・内村鑑三が著書「流竄録」の中で、米国ペンシルベニア州立エルウィン精神薄弱児養護施設での看護体験をもとにエドゥアール・セガンの知的障害教育論を日本に紹介していました。「白痴教育とは生理学上の原則を応用した機器と方法とにより、健全な児童の成長発達する順序を追い、その微弱な身体と精神とに有意な感化を与える」

「セツルメント」
 
筆子は斬新な発想の取り組みに大いに共感、気力を奮い立たせるようにして亮一が米国の知的障害児学校で研修するのを2度に渡って支援します。津田梅子と連れ立ってアメリカはコロラド州デンバー市開催の「婦人倶楽部万国大会」(明治31/1898年6月)に日本婦人代表として出席すると、2人を招待したアリス・ブリード(Alice Ives Breed)副会長をめぐる役員選挙妨害のゴシップ記事に辟易しつつ、「一個の見世物として興ぜられんは口惜し」1日草案に費やし英語でスピーチします。ロンドンのセツルメント「トインビー・ホール」に感銘を受けシカゴにアメリカ初のセツルメント「ハル・ハウス」を設立したジェーン・アダムス(J. Addams)の講演に感動します。マサチューセッツでケンブリッジ女学校に通うハーバード大学に合格したばかりのヘレン・ケラーと対面、シカゴでシカゴ大学と「ハル・ハウス」はじめ孤児院・託児所・障害児学校・障害者収容所・公衆浴場・養老院・障害兵士収容所を見学、ボストンの女子少年院やペンシルベニアのブリンマー女子大学を訪問。そしてペンシルヴァニア州で知的障害児童の生理学学校を訪問しエルジー・ミード・セガン夫人と面談を果たした亮一とニューヨークで落ち合います。実はこの頃、イギリスで産声を挙げた「優生学 / Eugenics(敵者の積極的繁殖)」に基づいて、アメリカでは「禁断的優生学 / Negative Eugenics(不適者の断種)」運動が盛んになり、2人が帰国してまもなく世界初の「インディアナ州優生学法 / Indiana Eugenics Law」(1907年)を皮切りに、アイルランド系カトリック移民2世でスラム街巡回看護婦マーガレット・ サンガー(Margaret Sanger)の「産児調節 / Birth Control」運動と交差しながら、全米で「優生断種法 / Eugenic Sterilization Law」が制定されていきます。

「滝乃川学園」
 帰国した筆子は華族女学校を退官、静修女学校の校舎と生徒を津田梅子に譲り、降るほどある縁談を断り、親族の反対を押し切って42歳で亮一と再婚します。「精神病者監護法」(明治33/1900年)が制定され、精神障害者や知的障害者の私宅監置(監禁・拘束)が義務付けられる最中に、夫婦で知的障害児のための専門教育機関「滝乃川学園」を開所、生涯施設として病室・研究所・農園を整備していく将来構想に向けて2人三脚で運営・経営にあたります。「基督宣はく『汝等わが此の兄弟のいと小さきものの一人に行へるは乃ち我に行ひしなり』と、鳴呼、我等が人に盡すは之單に人に盡すにあらずして神になすなり、基督の御恩に報ゆるなり、御恩返しなり」夫婦の居間は宿舎の一部に畳を数枚敷き詰めた質素なもので、稀に夫・亮一と意見の相違があると台所で鰹節を気の静まるまで削ります。亮一は国内外での研究活動や講演活動等で不在が多く、筆子が実質的な責任者として経営にあたります。はじめに、貧しい女性たちに自活の道を開く保母養成部を創設、華族女学校の教え子らが英語・歴史・習字・裁縫などを教え、卒業後は学園内で保母として採用します。次に、農園整備を目指して農作業部を開設し養蚕・花つくり・わさび・奈良漬けなどを製造販売したりバザーに励みます。さらに医師を招いて皮膚薬ミリコールや胃腸薬ルプリンを製造。筆子は寮母として熱心に園児ひとりひとりの状況を細かく理解して養護と指導にあたる傍ら、苦しい財政を助けようと、アンデルセン童話を翻訳したり童話集・旅行記・家庭小説などを執筆。美しく才ある英国貴族令嬢のロマンス物語などに空想を繰り広げます。

「慈善活動から社会事業へ」
 学園の子供たちが日々成長していく様子を驚きと喜びとともに見守る中で長女・幸子が逝去。55歳の筆子は気力を奮い起こして巣鴨移転にあたる最中に園児の火遊びが原因で火災が発生、炎に飛び込んで足に怪我を負いながら園児を探し求めるも6名の生徒が焼死。「火を弄んで火事を惹き起しながら、尚その罪悪なるを知らず、又危険に臨んで危険たるを知らざる不幸児の、保護教育の任にある身として、彼等が眼となり耳となり手となり足となり又心となりて、煙を潜り火を踏んで、以て自ら助け得ざる所を助けんとこそ、誰しも覚悟しつれ、さるに事実は斯くも違反して、抱負は破れ、精神は砕かれ、只存するは慚愧の恨のみ」監督責任また賠償問題が重くのしかかる筆子と亮一は学園の閉鎖を決意します。すると筆子に学んだ貞明皇后はじめ華族・財閥ならびに全国から励ましの手紙と義援金が寄せられます。理事長に渋沢栄一を据え財団法人の認可を受け、空気の澄んだ国立市で学園再興を果たし、皇族からの度重なる御下賜金と来訪、篤志家からの援助に支えられながら学園存立に力を尽くします。「子らはみな 大御めくみをかしこみて あしたゆうべに をろがみまつる」昭和恐慌の財政難の中で夫・亮一が70歳で死去、筆子は脳溢血の後遺症で半身不随の身を押しながら76歳で第2代学園長に就任。ナチス・ドイツ「遺伝病子孫予防法 / Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses」に倣って、日本は「国民優生法(のちGHQ下で本人同意が不要な「優生保護法」に強化)」(1940年)を制定。障害を持つ人への強制不妊手術が合法化され、戦争による飢えまた空襲で幾人もの生徒また教職員が命を落とす中、筆子は学園の将来を案じながら83歳で逝去。
 平成19(2007)年と平成30(2018)年、お忍びでのご訪問また行幸啓の際に、美智子皇后陛下は修復された天使のピアノで讃美歌を奏でられます。

-大村市 Omura city
-滝乃川学園 Takinokawa Gakuen
-「長崎県の教育史 (都道府県教育史)」(外山幹夫 著 思文閣出版1984.11)
-「開国の深淵」(畑中一男 著 アイ・エス・シー1990.8)
-維新政権の成立と大村藩 / 大村市
-日本食志 一名日本食品滋養及沿革説1880年代(明治13-明治22) / 酪農乳業史デジタルアーカイブス
-「石井亮一と滝乃川学園 : 石井亮一没後50周年記念復刻版」(滝乃川学園, 1986.6)
-「社会事業に生きた女性たち : その生涯としごと」(五味百合子 編著 ドメス出版, 1973)
-「石井筆子の幼少期に関する研究ノート」津曲裕次 高知女子大学紀要 社会福祉学部編 第48巻 1999
-「石井筆子と1898 (明治31)年万国婦人倶楽部大会」 津曲裕次 高知女子大学紀要 社会福祉学部編 第49巻 2000
-「石井筆子の1898 (明治31)年訪米の研究」津曲裕次 高知女子大学紀要 社会福祉学部編 第50巻 2001
-「草創期における障害児の福祉と教育-石井筆子の功績から学ぶもの-」(川上 輝昭 名古屋女子大学 紀要 54(人・社)43~55 2008)
-「石井亮一の知的障害児教育福祉思想に関する歴史研究」(小川英彦 名古屋女子大学 紀要54(人・社)43~55 2008)
-「20 世紀初頭のアメリカ合衆国における優生学運動と断種」貴堂嘉之 ジェンダー史学 第 17 号(2021)p5-p19
-「精神病者監 護法の「監護」概念の検証」宇都宮みのり『社会福祉学』2010 年 51 巻 3 号 p. 64-77
-両陛下、滝乃川学園を訪問 平成最後の障害者週間 日本経済新聞2018年12月6日
-社会福祉法人 滝乃川学園 第52回 社会貢献者表彰 / 社会貢献支援財団

happywomen.base.shop

happywomen.base.shop


女風土記 HappyWomen

女風土記 HappyWomen

Share Your Love and Happy Women's Story!

あなたを元気にする女性の逸話をお寄せください!
Share your story of a woman that inspires you!